どうもこんにちは。京野です。
なんだかパソコンが壊れてしまって、久しぶりにMacで打っています。
MacBookAir
いつ頃買ったんだったかなぁ。2011年の10月ですね。
スティーブジョブズが亡くなって、数日で買いました。
それまでほぼMacは使ったことがなかったんですけど、欲しくなってしまって。
買ったら買ったでパワーアップしたくなって、
自分で分解して内部のメモリを乗せ換えて、SSDも換装して、改造したにもかかわらず全然使っていないんですよね。
Macファンからしたら「どうして?」って感じだと思うんですけど、なんでなんだろう。
やっぱりWindows歴が長いので、そっちのほうが使いやすいんですよね。
これはMacから打っているんですけど、それでも、パラレルを乗せて、結局Windows上で動かしているという…
Windowsしか使えない
結局Windowsしか使えてないですねぇ。
ちゃんとMacを使えるようになりたいなぁ。
さて、先程も書きましたけど、メインのPCの調子がどうもおかしいんですよね。
すごく熱暴走するようになってしまって、プチフリーズが頻発して、もうダメダメな感じです。早くデータを移して、別なPCにするしかないかな、と思っています。
Surfaceに興味あり
今は、SurfacePro4が欲しいなって思っています。
実際に入手するかはわかりませんけど。
あぁ、でもMac使っているとこれはこれでいいなぁ。
やっぱりキーボードがフルサイズなのが最高だわ…
ただ、冬場に触ると、このマグネシウム合金でしたっけ。
結構寒くないですか?
さて、本題。今日はAmazonのお坊さん便についてです。
レッツゴー・ウンチキスト!
仏教会がアマゾンお坊さん便を批判しているが…
さて、仏教会がアマゾンお坊さん便を批判しているという情報が流れました。
今日はこの件について。
コトの概要
インターネット通販大手、アマゾンジャパンのサイトで、「お坊さん便」というサービスが始まりました。
葬儀関連会社の「みんれび」が、Amazonを通じてこのサービスを12月8日に開始したのです。
要は、僧侶を3万5000円で手配する、というもの。
「ネット時代のニーズに応える」「こころのこもった僧侶を派遣したい」
ということでした。
ネットでは大騒ぎ
すでにこのサービスが始まった時から、ネットでは大騒ぎでした。
「Amazonがついに坊さん宅配」
なんて面白おかしく伝えられることになりました。
「時代はここまで来たか」
という話から
「ちょっとおかしい気がする」
という話までありました。
私は別にいいと思うんですけど。
登録希望の坊さんも相次ぐ
登録希望の坊さんも相次いだそうです。
http://www.news-postseven.com/archives/20151218_370767.html
顧客のニーズはある、提供される側からも供給がある。
にもかかわらず…反対する人がいる。「全日本仏教会」
https://web.archive.org/web/20151227003417/http://jp.reuters.com:80/article/idJP2015122401001578
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2015/12/24/kiji/K20151224011743160.html
斎藤理事長は「お布施はサービスの対価ではない。諸外国の宗教事情を見ても、このようなことを許している国はない」
コトの本質はどこにあるか。
この問題、コトの本質はどこにあるのか。
批判をしたのは、「全日本仏教会(東京都港区)」の斎藤理事長。
「宗教行為をサービスとして商品にしている」
「Amazonの宗教に対する姿勢に疑問と失望を禁じ得ない」
これが批判の内容。
さて、この問題のコトの本質はどこにあるのか。
まず、額面通りに受け取ってみましょう。
「宗教行為をサービスとして商品にしている」と言っています。
サービス=行為
商品=物
だと私は認識しているので、「サービスとして商品にしている」という意味はよくわかりませんが、サービスとしてパッケージ化して売っているという意味だと理解します。
さて、宗教行為はサービスではなかったのでしょうか。
まず、この辺、私は違和感がありますけど。
宗教行為と言えど、葬式の坊さんを呼ぶというのは「宗教」と思って呼んでいる人ってどれだけいるのだろうか。
特に無宗教の人だって、葬式になれば、あるいは法事になれば僧侶にお願いして読経してもらうのが普通でしょう。
宗教とは無自覚にやっています。
読経がサービスじゃないならば、お金はいらないのでしょうか。
そもそも、全日本仏教会とは?
公益財団法人 全日本仏教会 といいます。
もともと1900年に国家の宗教統制に反対するために結成された
「仏教懇話会」
が起源なのだとか。
そして、昭和32年、1967年に再結成され、財団法人全日本仏教会と改称。
平成24年に公益財団法人になったとのこと。
もともと、弾圧に反するために作られたため
基本スタンスは
「ハト派リベラル」
革新政党や過激派といった党派活動、ビラ配り、街頭デモなどに参加する僧侶も多いというからびっくり。
そういうところと離れて権威を持つのが仏教じゃないのか。
一部には
日教組や自治労などと同様、圧力団体だと言われているとか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%8F%E6%95%99%E4%BC%9A
過去にも、イオンとトラブルを抱えていた…
イオンが2010年、葬儀紹介サービスで
「お布施の価格の目安」
を打ち出したところ、この全日本仏教会などが
「布施に定価はない。企業による宗教行為への介入だ」
と反発している。
おかしな話で、まず、定価なんてことは言っていなくて「目安」と言っているだけ。
それに対して、こういうクレームを言ってくるとかって圧力団体だわ(笑)
(もちろん、こんな考え仏教界の総意ではあるはずもなく、8宗派、全国600の寺院の協力が得られることになったわけだが。)
実際は、消費者にとっては明確なお布施価格の明示はむしろありがたいものであり、
また、それだけ多くの寺院や宗派の協力が得られるほど、低額なサービスではなく、むしろ多くの寺院にとってはイオンを経由したほうが収入が増えるという背景だったのである。
全日本仏教界は何が気に入らないのか?
しかし、彼らは言ってくる。
「宗教はサービスじゃない」
宗教行為は金銭の対価として行われるサービスでは本来無い、という視点でいえば、うなずけるところもないわけではない。
しかし、どうなのだろうか。
実際、いくらの金額を包めばいいのかわからないくて困っている消費者はたくさんいる。
実際はそのお布施を収入源として生きているのもまた寺院の現実。
日本のすべての坊さんがそうなる、というわけでもなく、あくまでそのようなサービスが一部に始まったということに目くじらを立てる必要がどうしてあるのだろうか。
たとえば、こういうことなのだろうか。長期視点で見れば、「サービスの対価としてお金をもらう」となってしまうと、通常の経済活動と変わらなくなり、税金を免除されている理由がなくなってしまう、そうなると困るということなのだろうか。
宗教の本質とは
わからなくなった時には、本質に戻る、というのがいいだろう。
宗教の本質とは何なのだろうか。
「絶対的な存在を信じることで、信者が自信を持ち、日々を明るく生きられるようになる」これが宗教の価値だと私は思っている。
私の信頼する住職もそういう趣旨のことを言っている。
(なので、今年の漢字で2007年に「偽」と決まったときに、清水寺の貫主が「偽」と書いたことを挙げて「宗教界の風上にも置けない」と言っていた。人が笑顔になるようなことをするのが宗教だ、と。)
写真:
http://www.leafkyoto.net/blog/kyonikki/2007/12/post-178.html
もし、そうであるならば、宗教家として、法事の手配に困る消費者に手を差し伸べることができるサービスの普及はむしろ歓迎すべきことなのではないか。
法事など不要と考える若者
むしろ、法事など、もうしなくても、という考え方もある。
お墓ビジネスは縮小?
お墓ビジネスだって、縮小しているのではないか。
例えば、都心では「家」の制度も揺らいでいるし、土地の問題もあり、むしろ墓は小型化している。
墓の大きさで、故人の功績を示す必要がない、ということなのではないか。
セレモニー挙行者としての僧侶はいらない
そういう流れで行けば、単なるセレモニー挙行者としての僧侶でしかなければ、今後消えていく存在になってしまうのではないか。
全日本仏教界の主張が出るなら、世間の主張として出るべき
宗教家であれば、宗教家としての価値を提供し、宗教家としての必要性を知らしめることで、その地位も上がるのかもしれない。
そうすれば、全日本仏教会がクレームを言ったりしなくても、
一般人からこんな声が出るかもしれない。
「サービスの対価としてお金をもらうようなことは、失礼だろう」
そうなれば、Amazonに入れるべきかという議論をしてもいいと思う。
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