今日、4月13日は「決闘の日」です。
403年前の4月13日、通称巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことにちなみ、4月13日は決闘の日です。
今日は、巌流島と、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘について調べてみました。
レッツゴー・ウンチキスト!
巌流島について
巌流島(がんりゅうじま)は正式名称を「船島(ふなしま)」といいます。
なんだか、ガンリュウジマという方が重みがあっていいですよね。
じつは、この名前は佐々木小次郎が「巖流」を名乗ったことが由来です。
巌流島の場所はどこ?
ところで、巌流島の場所、知ってますか?
巖流島は山口県下関市にあります。
もう九州の目と鼻の先です。
関門海峡に浮かぶ無人島です。
住所は、「下関市大字彦島字船島」です。
本州(下関市彦島)からわずか400m。
関門海峡内に位置する小島です。
巌流島はサイズが6倍に??
かつては、この巌流島のすぐとなりに、岩礁があり、難所でした。
そこで、岩礁は大正年間、航行する船舶の増加と大型化の障害となるため、爆破されてます。
しかし、今ではこの部分もあわせて三菱重工業によって埋め立てられ、現在の巌流島の一部となりました。
それにより、もともと17,000平方メートル程度であった島の面積は約6倍の10万平方メートルに広がりました。
実は、戦いの日はよくわかっていない??
戦いがあったのは慶長17年の「旧暦の」4月13日ということになっています。
これは、西暦(グレゴリオ暦)では1ヶ月ズレて1612年5月13日ですね。
ところが、実は諸説あるのです。
『丹治峯均筆記(享保12年(1727年))』によると…武蔵19歳のとき
『二天記(安永5年(1776年))』によると…慶長17年4月13日(グレゴリオ暦では1612年5月13日)
なんですね。その他諸説あるそうです。
決闘時の二人それぞれの年齢
どうやら宮本武蔵は20代、対して佐々木小次郎は60歳近くだった!!一説では70歳オーバーとも。
え!40~50歳前後違うのか!!!!
そ、そりゃ…勝つよなぁ…
武蔵は、決闘に遅れてきたのか?
どうやら、これは史実ではないようです。
吉川英治の小説『宮本武蔵』では、「武蔵が決闘にわざと遅れた」となっているが、これは『武公伝』に材を採った吉川の創作である。
武蔵の養子で決闘に立ち会った目撃者である宮本伊織が、武蔵の死後9年目に建立した小倉の顕彰碑「小倉碑文」によると、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒したとある。このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。(Wikipedia)
なぜ、二人は戦ったのか?
当時、肥前小倉藩は後に熊本に移る肥後細川家の領地でした。
最初に岩流兵法の佐々木小次郎が細川家の剣術指南役でしたが、後に縁があって宮本武蔵も二刀流の剣術指南役として召し抱えられます。
二つの流派の門人がどっちの師匠が強いかで諍いを起こして、師匠である二人が決闘をするはめになった。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1256938902
うーん、吉川英治さんの小説がかなり我々の常識に影響を与えているようです。それにしても、意外にわかっていないことが多いんですね。
明日もまた会いましょう!
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