今日5/21はリンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功した日です!
今日はリンドバーグのこの飛行について調べてみました!
レッツゴー・ウンチキスト!
リンドバーグ翼の日
1927年5月21日、チャールズ・リンドバーグがパリに到着し、大西洋無着陸横断飛行に成功しました。
かかった日にちは足掛け2日間です。
前日の朝、午前7時52分にニューヨークを出発し、翌日午後にパリに到着します。
採用した航路はこちら。当たり前ですが、東に向かう形になりますね。
乗っていた飛行機の名前
ライアン・エアラインズ(Ryan Airlines)製の
「ライアンNYP-1」という飛行機です。愛称は
「スピリット・オブ・セントルイス」
(英語:Spirit of St. Louis)
です。セントルイスの魂という意味ですね。
現在はスミソニアン航空宇宙博物館に保管されています。
命名者はリンドバーグ自身です。
ところで、製造者による機体命名「NYP-1」は、この機体の唯一の目的である飛行区間「ニューヨーク・パリ」のイニシャルを取って命名されました。
これだけの目的のために作ったということですね。
チャールズ・リンドバーグの依頼を受け、1927年にライアン・エアラインズの技術者ドナルド・A・ホールらによって設計され、1機のみ製作されました。
翼よ、あれがパリの灯だ
あまりにも有名な言葉ですよね。
リンドバーグはニューヨークを出発後、5月21日の午後5時22分にパリに到着しました。
到着した空港は「ル・ブールジェ空港」です。
飛行距離は約5800km、飛行時間は33時間30分でした。(1日と9時間30分)
ところで、この「翼よ、あれがパリの灯だ」という言葉、あまりにもきれいな言葉ですよね。
到着したときに言った言葉だ、とされていますけど、単独飛行だから、誰かが乗っていたわけではないし、無線で通信していたのでしょうか。
あるいは後から語った言葉なのでしょうか。いずれにせよ、格好いいんですけど、かっこ良すぎて狙ってないかなと(笑)
時代背景
1927年といえば、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間ですよね。
日本では前年1926年に大正天皇が崩御(ほうぎょ、亡くなること)され、昭和に元号が変わって2年目、昭和2年です。
なぜ、リンドバーグは飛んだのか?
オルティーグ賞(Orteig Prize)の獲得を狙っていたからです。
オルティーグ賞とは、ニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコースを無着陸で飛んだ最初の連合国側の飛行士に対して与えられる賞でした。
賞を提供したのはニューヨークのホテル経営者「レイモンド・オルティーグ」です。
賞金は25,000ドルでした。
これには、多くの若い飛行士が挑戦しました。
結局、1927年5月、アメリカのチャールズ・リンドバーグがニューヨークからパリまで無着陸横断飛行を達成し、賞を獲得しました。
レイモンド・オルティーグは初め、この賞を5年の期限を設定して1919年5月19日に提供しました。
しかし、期限内に挑戦者が現れなかったんですね。
それで、航空技術の進歩により多数の挑戦者が現れる段階に達した1924年、さらに5年の期間を再設定しました。
要は、リンドバーグはカネ目当てだった、ということですね。
【ひとりごと:というのが表向きですけど、実際戦争が起きる中、アメリカ国(連合国)の中で、秀逸な航空機の開発が望まれていた、そのために仕掛けたというようなこともアリそうな気がします。】
では、どうしてリンドバーグは成功できたのか?
成功の要因を箇条書きにしました。
- 競争者の多くが3発機の中、リンドバーグは単発機(リスクの高い戦略)を選択
- チーム間の意見の不一致を避けるため、単独で飛んだ
- 無線機、六分儀、パラシュート等の必須とはいえない器材を積まなかった
(他機の事故の原因となった重量超過を回避) - 十分でない天候にあえて飛び立った決断力
成功に際し、リンドバーグの名言
「全く危険が無いところで生きてゆくことを望む男がいるだろうか? 私は馬鹿げた偶然に賭けるつもりは無いが、何かに挑戦することなく成し遂げられることがあるとも思わない。」
今でもリスクを取らない人間には身にしみる言葉ですね。
言ってみたいな。
「リスクを取らないって、それって挑戦してないってことじゃん。」
「男なのにそういう生き方したいの?」
あー、なんだか元気になった!!
今日の教訓
リスクを取らない生き方なんてカッコ悪い。挑戦しない人生に達成はない。
うーん、やる気出た!
がんばろ!みんな!チャレンジしよ!
俺もまだ人生諦めてない!(笑)
今日も読んでいただき、ありがとうございます。
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