おはようございます。京野です。
さて、楽しみだった三連休もあっという間に終わってしまいました。
ブルーマンデーいや、ブルーチューズデーの方もいらっしゃるのでしょうか。
今日は都内はいい天気ですねぇ。
いや、また朝この原稿を書いているのか、という話ですけど。
今日は「憲法論」と「安全保障」について
今日は「憲法論」と「安全保障」について話をしたいと思っています。
どのようにまとまるかはわかりませんが、まぁ、相変わらずダラダラと書いていこうと思います。
レッツゴー・ウンチキスト!
(ほんまにうんちくあるんかいな(笑))
今日はこんなニュースが目につきました
学者1万人超が抗議声明=強行採決「民主主義の破壊」―東京
上記より引用
さまざまな専門分野の学者でつくる「安全保障関連法案に反対する学者の会」が20日、東京都内で記者会見し、「強行採決は国民の意思を踏みにじる立憲主義と民主主義の破壊だ」などとする1万1279人の共同声明を発表した。
まあ、ざっくりいうと、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英教授らが「呼びかけ人」となって、賛同する学者や研究者らが共同で安倍政権を批判したということですね。
これは健全なものだと思います。
国家権力にはいつも濫用の危険があるわけで、その国家権力を縛るものが「憲法」だったわけですよね。
その縛りがきかなくなってくると、国民の権利自由がおかされることがある。
だから、戦わなければならない。これは健全です。
以前も書いたことがありますけど、憲法というのは決して我々を「縛る」ものではなくて、国家権力の濫用を抑制し、国民の権利を守るもの、それが「憲法」だったわけです。
興味があれば以前のエントリをどうぞ。
だから、憲法尊重擁護義務(99条)が課せられているのは天皇・公務員だけで、我々国民にはそれを守る義務はない、という話でした。
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
だからこそ、我々は法律で裁かれることはあっても、憲法違反で捕まることはないわけです。
「憲法20条違反で逮捕する!」とかってないわけですよね。
したがって、国家権力は絶対に憲法を守らねばなりませんし、それが守られないようだったら我々は断固として戦わなければならない。
それが侵されるようだったら「民主主義の崩壊」ということになる、ということですね。
それは本当に正しいし、そうでなければならない。
でも、私はどう思うかというと、しょうがないかなぁ、というのが本音の話です。
しょうがない、というのはどういうことなのか。
しょうがない、とはどういうことか。
先程から書いているように、国家権力が恣意的に憲法の「解釈変更」という名のもとに運用を変えることがあれば、それは「憲法」を国家権力を縛るための手段が奪われたのと同じことになりますから、やっぱりそれは国民にとっては脅威なわけです。
いつでも国家権力は強大な力を持つゆえに、憲法で縛り、それが侵されるようだったら国民は声をあげねばならない、ということにはとても同意するわけです。
でも、私がしょうがないと思うのは、
国民の知る情報と、国が持っている情報が違うから
というのが簡単なこたえです。
民主主義が「なによりも重要」ではないのかもしれない
皆さんは自分が政権与党の党首になったことを想像したことがありますか?
国家同士のやりとりの中では、やっぱり当然国のトップは知れることが多くあります。
その一方で、本当にその内容をすべて国民に言っていると思いますか?
国家間の話の中には、秘密裏に進めていかねばならないものがあります。
そもそも、我々が直接選挙ではなくて、間接民主制をとっているのも、ざっくりいえば「プロに任せておけ」「国民が直接政治はできないよ」ということなわけです。
で、例えば、Aという情報を政府は得ている。
しかし、Aという情報を国民が知らない場合もある。
Aという情報を全国民に知らせると、混乱が起きる。
したがってそれを知らせないまま政治を動かしていきたい、というようなテーマもあるわけです。
それは例えば、国家機密に係る話。国家間での密約に関する話。テーマで行けば、核兵器や安全保障の話。
こんな話って、民主主義の原則が成り立たないものっていっぱいあるんですよね。
国民に「知る権利がある」と言ってみたところで、国民皆が知るところになったらまずい話もいくらでもある。
国民全員を巻き込んだ議論をしていたのでは、安全保障上に問題がある。
その場合は、「議論をすっ飛ばそう」ということなわけです。
まぁ、だめですよ。そんなこと。
でも、国民皆に知らせることができないことも多数あるってわけですよ。
実際、これまでもそんなことがあったじゃないですか。
非核三原則があるのに、実際は核を積んだアメリカ船の寄港を認めていたとか。
そんなの、国民が知ならきゃいいだけで、国防はしなければならないというのが政府関係者の考え方になるわけです。
会社の話に置き換えてみると
乱暴な議論であることは承知してますけど、会社の話に置き換えてみるとそんなことありませんか。
経営陣は知っている、でも社員には詳細は示さない。
会社の理念に背くようなことも時々する。
でも、実際の運用をする上で経営陣も苦渋の決断をしなければならないことがある。
東芝の不正な会計処理の話もそのようなことですよねぇ…
憲法の位置づけ
憲法は最高法規(98条)です。
98条
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
日本は硬性憲法であり、なかなか変えることが大変。
安倍政権はもともとは改憲をする予定でした。
しかし、改憲をするためは国会議員の3分の2以上の数をとり、国民投票で過半数。
でも、それが取れないわけです。
国会議員にも隣国の力がすでに及んでいます。
1/3以上反対派を送り込めば、改正は絶対にできない。
まぁ、そんなところで改正が進まないわけです。
憲法や解釈をかえる必要性はどこに?
正確にはそれができないから「憲法解釈の変更」ですけどね。
差し迫った「脅威」があるからです。
簡単にいえば、それは
テロと、隣国
です。
隣国が本気で尖閣諸島を獲りに来ています。
このレームダックになっているオバマの時になんとしても獲ろうと思っています。
アメリカが日本を守ってくれるのか
日本国民は「アメリカさんにいざというときは戦ってもらう」と考えているんですかね。
安全保障上はそうなっています。
でも、アメリカ国民の考えになってください。
アメリカの兵士の母の気持ちになってください。
自国が侵されたわけじゃない、安全保障上の同盟国である国が侵略されたから、あるいはされそうになったから、自分の息子がその国のために命を失うかもしれない。
そんなこと許容できますか?
もうアメリカ国民を死なせないといっているオバマが、アメリカの兵を日本国民を守るために派兵しますかね。
結局、日本国民の命は、日本人が守らなければならない、と思うのです。
それが、国際的な枠組みの中で「集団的自衛権」になれば、自国が攻撃されていなくても、自国が攻撃されたとみなして反撃する。それは国際法で認められた交戦権だし、それを日本人が憲法でNGを出してしまっていると国際協調もできなくなるわけです。
ま、実際そうなわけです。
だから、安倍政権は「それはなんとかせい」と言われているわけです。
ノーベル平和賞という足かせ
アメリカが隣国の横暴を許し、ロシアのクリミア侵攻も流している理由はノーベル平和賞です。
オバマはノーベル平和賞をもらってしまいました。
自国民にも「戦地には行かせない」と言い、空爆はするけど派兵はほとんどしません。
それはやっぱりノーベル平和賞が足かせになっているわけです。
戦わないアメリカなど怖くはありません。
「世界の警察」
などと言われたのは遠い昔。
その時に、自国の勢力をのばそうとするのは当然です。
ジャイアンがいなくなれば、スネ夫が威張りだす。
これは自然なながれです。(笑)
日本の自衛権
日本の憲法と法律に基づく「自衛権」は本当に国を守ることはできません。
普通ならばネガティブリスト、つまり「これはやってはいけない」ということが書かれていて、それ以外何をやってもいい。
しかし、日本はポジティブリストで「これをやっていい」と書かれていない限りやっちゃいけないということになっています。
そのリストは当然隣国他にも漏れています。
「ははぁ、コレ以外できないのね。ふふふ」
ってことになっています。
だから、そのリストの瑕疵を付いてきます。
たとえば、「民間人ならば攻撃できないのね」とか。
緊急時にそれでどうやって対応するんでしょうか。
隣国は日本の海上保安庁の巡視船ともイザコザがいろいろありました。
領海侵犯をされたら攻撃するのが国際法上正当です。
でも、日本は「他国」すなわち「国」としてやってこないと攻撃できません。
だから、本当はウラで国家権力が糸を引いていても「民間人船長です」と言われてしまえば、国として力を行使できない。そういうアホなことになっています。
小笠原サンゴが荒らされても、巡視艇に体当たりされて逮捕して拿捕しても、結局手ぶらで返す。
それが日本です。
そもそも「戦争の放棄」をしている時点で、国が守れるのでしょうか。
私は無理だと思います。
泥棒が家に入って何かを盗もうとしている。
「おいやめろ」と声をかける。
それでも奴は盗み続けている。
差し迫った脅威だから、これは戦える。
手ぶらで殴ろうと思ったら、相手は機関銃を持っている。
なんで盗みに入ったのか聞いたら「あそこはセキュリティが甘いから」
入っても手ぶらでしか殴ってこないから。
だから、ビビらせないといけない。
核兵器を使ったらいけない。でも持っていることには意味がある。
核兵器があるから、北の国も勝手なことをしていられる。
核兵器は戦力という概念を消し去るものです。
昔は兵士の数で力を測った。
何万の軍隊と何千の軍隊、というふうに。
そのうち、武器の力が戦力をあらわすように。
でも、核兵器が1あると、もう均衡しちゃう。
どんな国とも均衡しちゃう。
だから、新興国は核兵器開発を行いたい。
虐げられてきた国々はなんとかして核を持とうとする。
北朝鮮もどの国も認めていないのにやる。
でも、アレがあるから、あの国の横暴が許されている。
勝手が許される。
結局、国の発言権は、「核をもっているか」になってしまう。
日本の核
だから、はっきりいえば、日本が原子力発電所の開発を辞めたくないのは、国防のためでもあるんです。
でも、「国防のため」とは言えない。
そんなために持っているなんて言えない。
でも、みんな政府関係者はわかっています。
国防のために核が必要であることを。
今、必死に、日本の中の国論をつくり、核廃絶すべきと動かしている運動主体は隣国です。
この機会に、日本に核を扱わせることを辞めさせ、ウランの所持を認めさせないようにしようとしています。
日本人じゃないのに、日本人のふりをして、国民世論を作る。
本当に怖い。
出典:http://anonymous-post.com/2015-7-13.html
ちなみに、この政権という字は何語なのか。
参照:↓
「日本の未来の為に核廃絶」
「原子力発電所にNO」
じつは、隣国が仕掛けてきているということです。
日本は核非保有国でありながら、常にIAEAに24時間監視されながらも、ウランを持ち、扱える唯一の国だそうです。原子力を扱うことが、未来のために重要だと政権はわかっています。でも「戦争のため」とはいえない。
でも実際はそれが大切だとわかっているから、原子力発電所も絶対に止めちゃいけないわけです。
憲法の前文にこんな理想があります
憲法の全文にこんなくだりがあります。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
「平和を愛する諸国民」というのは海外の国の人達。
その人達の「公正と信義に信頼する」。
素敵な理想だけど、そんなこと言っていられないでしょう。
自分の国を守ろうと思ったら、「非暴力不服従」では守れない。
自分の家に暴漢が入ってきたら、命がけで戦うし、もっといえば入ってこないように、力を付けないといけない。
伝家の宝刀を抜くことはなくても、「いざとなったら抜くよ?」と見せなければならない。
それが兵力であり、核であり。
私は、そう思っています。
京野の結論
私は、民主主義の崩壊かもしれないと思います。
でも、そういうことは本当に信頼できる政治家に任せるべきじゃないかと。
法体系が、現在に対応してこなくなってきていると思うことがたくさんあります。
そのうちの一つなのかもなと。
私は、喫緊の国際的な課題解決のために、憲法改正やむなし、でも憲法改正できないように隣国がすでに議員もまきこんでいる以上、解釈で逃げるしかない。解釈で変えていくしかない。
結局のところ、
自分の国は、自分で守る。
国際協調が必要になってきたら、
「自分の仲間が侵されそうになったら、俺も戦う」
これも当然。
そうさせたくない他国の陰謀にひっかからないようになりましょう。
あ、もうこんな時間なので、ちょっとまとまらないけど。
情報のソース
まぁ、ソースないじゃん?という人はそう思っていてください。
フィクションだと思われてもいいです。
正直、国家機密については、時々政府に近い人から聞くことがあって、それを聞いていると「なにもしらない日本人幸せだなぁ」と思ってしまいます。
世界は国益を増やすために、他国を侵害しても良いと考えているわけです。
我々が思う以上に、わが国を狙っている国はあり、行動しているってことです。
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